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グダンスクにある「ポーランド郵便局攻防戦」があった場所を訪問

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映画「ブリキの太鼓」に描かれている「ポーランド郵便局攻防戦」があった場所を、207年7月に訪れた。建物は今でもグダンスクの郵便局として使用されており、建物の前には戦死、処刑されたポーランド人を追悼する記念碑が建てられていた。 

 

前回のブログ記事では、第二次世界大戦が始まった場所である、ポーランドのグダンスク北部にあるヴェステルプラッテ要塞跡地を訪問した時のことについて書いたが、ここでは同じく第二次世界大戦が始まった1939年9月1日から開始された、グダンスクにあるポーランド郵便局攻防戦跡地を訪れた時のことについて書こうと思う。このポーランド郵便局攻防戦については、西ドイツ映画の「ブリキの太鼓」で詳しく描かれている。主人公のオスカルの叔父さんのヤンがこの郵便局で働いていて、2人は郵便局内での立て籠もりの戦いに巻き込まれるのである。上の写真が、ドイツ軍とポーランド郵便局員との間での戦いがあった郵便局。今でも、グダンスク市内の郵便物を扱う郵便局として使用されている。

 

 

戦闘の推移は以下のとおり。「ダンツィヒのポーランド郵便局での攻防」のウィキペディア説明から抜粋。

 

04:00、ドイツは建物への電話線と電気供給を切断した。04:45には、ドイツの戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインヴェステルプラッテにあるポーランド軍の要塞に対して砲撃を開始した。ドイツ軍はポーランド郵便局への攻撃を開始した。この任務に割り当てられたドイツ軍部隊は、ダンツィヒ警察の特殊部隊とSS突撃大隊"E"とSSハイムヴェール・ダンツィヒと、旧オーストリアADGZ装甲車により構成されていた。攻撃はドイツ警察大佐ヴィリ・ベスケ(Willi Bethke)により指揮されていた。

最初、ドイツ軍は正面玄関を突破して建物に入ろうとし、2回目の攻撃は隣接する事務所から行われたがどちらも撃退された。ポーランド側の防衛の指揮を執っていたコンラット・グデルスキは2回目の攻撃で死亡した。

11:00にドイツ軍部隊は2つの75mm砲の援軍を得て、その支援のもと2回目の攻撃が行われたが、撃退された。

15:00にドイツ軍は2時間の停戦を宣言し、ポーランド軍に降伏を勧告した。が、拒否された。その間にドイツ軍は追加の増援である105mm砲と工兵部隊を受け取った。工兵部隊は壁の下を掘り進み600kgの爆発装置を設置した。17:00には爆弾が設置され、壁を破壊した。ドイツ軍部隊は3つの砲兵に支援され再攻撃を行った。この時地下室をのぞいた建物を占拠することができた。

18:00にドイツ軍は自動ポンプとガソリンタンクと火炎放射器を運び込んだ、それを使用して地下室をガソリンで焼き尽くした。5人のポーランド人が大火傷を負い、残りは降伏を選んだ。最初に建物をでた2人、白旗を掲げていたヤン・ミホン博士(Dr. Jan Michoń)とユゼフ・ヴォンシク(Józef Wąsik)はドイツ軍に射殺された(別の記録では、ミホン博士は火炎放射器で攻撃されたとある)。残りのポーランド人は降伏を許された。

 

ja.m.wikipedia.org

 

 

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戦いの後、降伏して捕虜になったポーランド郵便局員は簡易裁判の後に全員が処刑された。この事実も映画「ブリキの太鼓」に描かれている。

 

ウィキペディアの説明では、捕虜になったポーランド人は全員がパルチザンとして処刑されたと書いてあるが、映画「ブリキの太鼓」でも主人公オスカルの叔父であるヤンは戦後に処刑されてしまう。オスカルは本当は当時の年齢は15歳なのだが、3歳で自分の意志で成長を止めてしまったため子供と思われてドイツ兵は解放する。この辺は実際に映画「ブリキの太鼓」を見てもらいたい。上の写真は郵便局の前に建つ、この戦いと降伏後に処刑されたポーランド郵便局員を追悼する記念碑。2007年7月に僕が現地で撮影した、

 

1939年9月のポーランド戦の跡地を訪れたら、ナチスドイツ軍がポーランドに侵攻した当時はまだ訓練不足で戦術もお粗末であり、ポーランドに軍事援助を約束していたイギリスとフランスが西からドイツを攻めていれば、ヒトラーのナチスドイツ軍は英仏軍に負けていただろうということがよくわかった。

 

ここでも、前に書いたヴェステルプラッテ要塞での戦いと同じように、ドイツ軍は簡単に郵便局を占領できると予想していたが、思った以上に苦戦をして、最後は工兵が壁を爆破して、火炎放射器で地下室を焼き尽くしてようやく午後6時に占領できたのだった。やはり、ポーランド戦当時のドイツ軍は明らかに訓練不足で戦術も粗末であり、戦闘力はそんなに高くはなかったことがよくわかる。

 

だから、前のヴェステルプラッテ要塞の記事でも書いたように、1939年9月にポーランド兵と市民が勇敢にナチスドイツ軍と戦っている間に、ポーランドに軍事援助の保障を約束していたイギリスとフランスが西からドイツを攻めていれば、1939年9月にナチスドイツは降伏していたはずなのである。ヨーロッパでの大きな戦いになることを恐れた英仏の躊躇が、ナチスドイツを大きな化け物になる余裕を与え、ポーランド人の犠牲を無駄にしてしまった。1939年のポーランドの戦いの跡地を見ると、それが本当に実感できた。