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日本史上で最高の首相だったのは加藤友三郎海軍大将である

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●ヒトラーのナチスドイツとの軍事同盟、第二次大戦への枢軸軍側での参戦を防ぐ方法はかなり難しいが、山本権兵衛、加藤友三郎を草分けとする海軍条約派の提督の主張に従っていれば、それを防ぐことは出来たかもしれない。

 

●日本での民主主義というのは、第二次大戦敗戦後にアメリカがもたらしてくれたと誤解している日本人が多いが、「大正デモクラシー」の時代に大規模な軍縮と普通選挙が行われており、必ずしもアメリカに戦争で負けたので民主主義国になったのはない。

 

 

1921年のワシントン海軍軍縮条約を、日本代表の加藤友三郎海軍大臣は迷わずに受け入れた。加藤は「世界の平和に貢献すべきものたることを信ず」と述べた。

 

あともう少しで12月で12月8日は真珠湾攻撃の日であり、日本がアメリカ、イギリスと戦争しても勝てるはずはなかったということは誰でもわかりますが、具体的にどうやってアメリカ、イギリスという大国が支配する下で生きていくのかということを、明確に示した政治家たちが戦前にいました。加藤友三郎海軍元帥です。加藤は海軍大臣、首相として軍縮を断行しました。山本権兵衛、加藤友三郎、米内光政、山本五十六、井上成美のような提督たちを「海軍条約派」の提督と呼びます。写真上は加藤友三郎の写真。


「世界の平和に貢献すべきものたることを信ず」
第一次大戦後、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮条約の席上、日本の全権代表として出席した加藤友三郎海軍大将は、米英が主力艦の米英日の比率を「5・5・3」と提案したのを、こう評して受け入れた。

この時に加藤は次のように述べている。
「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。・・・仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。・・・結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」


加藤が軍縮に積極的だったのは、単に平和主義者だったということではない。そこには海軍提督としての実に見事な計算があった。日本がまず進んで軍縮を行い、小さな軍隊を作る。それによって世界の世論を味方につけて米英をも軍縮に巻き込む。米英軍が小さな軍隊になれば、広大な植民地経営も困難になり、日本と米英との衝突を回避できる。もし仮に日本が米英と戦争になったとしても、小さな軍隊同士ならば互角に戦える可能性がある。これが加藤の想定したシナリオだった。

 

 

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加藤友三郎が首相になると戦艦と巡洋戦艦を建造する「八・八艦隊」を廃案にして、海軍と陸軍の大規模な軍縮を行った。ただし、今の日本のように戦力保持を否定するのではなくて、他国に攻められた時に反撃ができる小さな軍隊は保持するという考えだった。

 


翌年に加藤が総理大臣になると、海軍艦隊派の主張する「八・八艦隊」を廃案にし、戦艦「安芸」など14隻を廃棄、建造予定の6隻は建造中止、海軍人員を大幅に削減した。陸軍大臣の山梨半造大将も同時に陸軍の人員削減、兵役の短縮を行い、軍縮に貢献した。そして、当時、日本の財政を圧迫していたシベリア出兵からも完全に撤兵させた。

ただし、ただ単に戦艦、巡洋艦などの主力艦を廃艦にしたのではなく、主力艦の数を減らす代わりに、残った主力艦には最新型の装備を備え付け、戦艦1隻で2隻の働きが出来るように工夫したのだった。わかりやすく言えば、技術力を高めて、米英の主力艦が1分間に1発しか主砲を撃てないなら、こちらは2発撃てるようにして、さらに、命中精度も米英の2倍以上にするように、色々と工夫をしたのだった。


この加藤の行なった軍縮により、海軍条約派提督達は1931年の満州事変、翌年の5・15事件の頃まで海軍の主流だった。その後、陸軍の暴走に引っ張られるような形で海軍内部にも無学、無知な将校が横行するようになり、1930年のロンドン海軍軍縮条約の後、36年に日本は軍縮条約から脱退し、無謀な戦争への道を突っ走ることとなる。そして、その後は1936年に広田内閣の時に日独伊三国防共協定、1940年に近衛内閣の時に日独伊三国軍事同盟という最悪の道をたどってしまった。

この頃から46センチ砲を持ってはいたが、主砲の命中精度、対空防御力などの技術が極めて低かった戦艦「大和」を始めとする大型艦の建造が進められた。だが、山本五十六、井上成美などの海軍条約派の提督たちが懸念していたように、結局、大した活躍のないまま、米海軍の航空攻撃で沈んでしまった。


日本にとって大きな不幸だったのは、加藤が1923年(大正12年)8月に大腸ガンのため、62才の若さで亡くなってしまったことである。加藤が亡くなった8日後には関東大震災が起こっており、ここでも、もし加藤が生きていたら損害が減っていたかもしれない。写真上は加藤友三郎の墓。2006年11月20日に青山霊園に行った時に撮影した。墓碑には、「内閣総理大臣元帥海軍大将正二位大勲位功二級子爵加藤友三郎墓」と彫ってある。

 

 

加藤友三郎による軍縮を左翼新聞社の東京新聞から出版された「宰相列伝」で知ったが、この本では加藤友三郎、山本権兵衛という海軍条約派の提督と、日露戦争を勝利に導いた桂太郎への批判は全く書かれていなかった。

 

 

僕は加藤友三郎のが軍縮と率先して行った海軍大将で首相だったことを、東京新聞が書いた「図解ー宰相列伝」という本で知った。ご存知のように、東京新聞とは朝日よりも左寄りの新聞社である。その東京新聞社が書いた本にも、加藤友三郎と山本権兵衛の批判はほとんど書かれてなかった。あと、日露戦争で日本を勝利に導いた時の首相だった桂太郎陸軍大将の批判もほとんど書かれてない。

さらに、ウィキペディアで米内光政海軍大将の説明を読むと昭和天皇が、
「近衛文麿ではなくて米内光政(海軍大将)と宇垣一成(陸軍大将)に長期間の間、首相をやらせていれば、中国との戦争は早期和平が成立して米英との戦争にはならなかったかもしれない」
と述べている説明があり、日中戦争早期和平派だった米内と宇垣に昭和天皇は首相をやらせたかったが、陸軍首脳部が「統帥権干犯」などを持ち出して猛反対したので実現しなかったようだ。宇垣一成陸軍大将は大正時代末期に「宇垣軍縮」を行い、日中戦争に対しても「不拡大、早期和平」を叫んでいて天皇の信任も厚かった。

海軍条約派と陸軍内で「不拡大、早期和平」を唱える将軍たちが日中戦争の時に政治と外交を行っていたら、大日本帝国の運命はもっとマシなものになっていたかもしれない。でも、「統帥権干犯」、「軍務大臣現役武官制度」というネックがあって、陸軍の日中戦争拡大派がシビリアンコントロールを拒否して主導権を握っていたから、大日本帝国憲法の制度上はどうしようもならなかったのだろう。

この大日本帝国の「統帥権干犯」と「軍務大臣現役武官制度」については、詳しく調べないとよくわからないので、機会があったらもう一度日記に書いてみようと思う。


こちらが加藤友三郎のウィキペディアの説明。

 

ja.m.wikipedia.org