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ドイツ人家庭にホームステイしてうまくいくコツ(3)

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ホスト家族であるH家の主人のお父さんは、1945年1月にポーランドのシュレジェン地方で戦死していた。「シュレジェン地方にはアウシュビッツ収容所がありますね」と僕が言うと、さすがに主人は不愉快な顔をした。

 
既にシュツットガルト近郊のファイヒンゲン・アン・デア・エンツ(エンツ川沿いのファヒンゲン町という意味)に住むH家でホームステイを始めて、なんとかすんなりと家族の中に入り込むことができたことは書いた。まあ、ホームステイをする前にドイツに3回旅行をして、「ドイツ人の保守的な家族の人たち、特にある程度年配の方々は、第二次世界大戦の時の軍事同盟のお陰で日本びいきだ」ということがわかっていたので、そんなに心配していなかったけど。

H家の主人のRさんが第二次世界大戦で父が戦死したので、父を知らないという話はしたけど、Rさんは戦争当時に母がつけていた日記を見せてくれて、「この日記は滅多に他人に見せたことはないなんだけど、君は第二次世界大戦に興味があるから」と言って、日記を見せてくれた。その日記には当時、ドイツ兵としてポーランドで戦っていた父親からの手紙が写して書かれてあった。最後はシュレジェンに部隊は移動してそこでソ連軍との激戦になって、その時を最後に父からの手紙は届かなくなっていた。シュレジェンというとアウシュビッツ収容所があった場所なので、日記を見せられてから数日後に、
「あなたの父はシュレジェンで亡くなったようですが、あの地方にはアウシュビッツがありましたね」
と僕が言うとRさんは明らかに不愉快な顔をして、
「そうだけど、それが私の父と何の関係があるのかな?父は国防軍で徴兵された兵隊だったけど」
と言った。僕もまずいことを言ったと思い、
「わかってますよ。ユダヤ人虐殺をやってのは一般親衛隊であって、国防軍は関係ないですよね」
と言ったけど、Rさんは不愉快な顔をしていた。奥さんに「日本ではドイツというと軍事同盟を結んでいたから、ホロコーストのイメージが強かったりするんですよ」と言った時も、「それはもう昔の話ですよ」と言ってうんざりした顔をしていた。やはり、ホロコーストの話は保守的で年配のドイツ人にはタブーのテーマである。

 

シュツットガルトでドイツ語を勉強することを決めたのは、ロンメル元帥の息子のマンフレート・ロンメル氏が長年シュツットガルト市長をしていたからであり、ホスト家族の主人のご厚意でロンメル氏から手紙を貰うことができた。


ところで、僕がシュツットガルト市をホームステイ先に選んだ理由だが、一番の大きな理由はロンメル元帥の息子のマンフレート・ロンメル氏が、長年シュツットガルト市長を務めていたからである。だから、ホームステイを始めた頃に「僕がドイツ軍に興味があることを学生時代に友達は知っていたから、あだ名は[Deutscher General][Rommel](ドイツの将軍)(ロンメル)だったんですよ。悪い友達はヒトラーと呼びましたけどね」と言ったら、家族の人たちは笑っていた。それで、その話を聞いていた主人のRさんが知り合いに電話をして、「今、ロンメル元帥に興味がある日本人がうちにホームステイしているのだが、マンフレート氏から何か記念品を貰えないかな」と交渉をしてくれて、そのお陰で日本に帰る数日前にマンフレート氏から短い手紙が貰えたのだった。当時、マンフレート氏はパーキンソン病で闘病生活中だったが、日本から来たジャーナリストでもない僕に手紙を書いてくれたのだった、手紙と同封されていたのは日本の記者が取材しにきた時の記録で、ロンメル元帥が自殺された時の様子が書かれていた。でも、ドイツ軍マニアである僕にとっては別に真新しい事実はなかった。マンフレート・ロンメル氏からの手紙まで貰えたので、H家にホームステイをしたのは本当に大正解だったと思った。

奥さんのお母さんがイースター休暇でH家に来た時に、僕は第二次大戦の日独同盟の話を色々としたけど、ナチスドイツ時代の話にも奥さんのお母さんは快く対応してくれた。


それ以外にも、H家でホームステイをして上手くいった時の話に、奥さんのIさんのお母さんがイースター休暇でH家に来た時のことがある。Iさんの母はOさんといい80歳くらいの人で、前の日記にも書いたように、主人はレニングラード攻防戦に参加して手榴弾の破片が戦後も左腕に残って痛んでいて、数年前に亡くなられたので未亡人だった。

僕はそれまでの経験から「Oさんはドイツ兵の妻だったから、同盟国だった日本人が第二次世界大戦の話をしても怒ることはないだろう」と思い、マレーネ・ディートリッヒのCDを持っていたから、「あの、リリー・マルレーンという歌を知りませんか?ディートリッヒがアメリカ軍を慰問した時に歌ったのが有名ですが、元はというとドイツ軍側でララ・アンデルセンが歌ったのですが?」と質問をして、Oさんが「ええ、知ってますよ」というとそのCDをプレイヤーでかけた。Oさんは「リリー・マルレーン」を黙って聞いていた。

Oさんはやはり予想したとおり日本人と第二次世界大戦の話をできて嬉しそうだったので、僕はこういう話もした。
僕「戦後50年の年の1995年に、日本のテレビ局とドイツのテレビ局がたくさんの第二次世界大戦のドキュメントを作って、その中で当時のニュースフィルムを見ることが出来て、日独伊三国軍事同盟が締結された時の日本国内の様子がフィルムに映ってました。ドイツ大使のオットが国立競技場に詰めかけた5万人の日本人と共に、『天皇陛下万歳!ハイル・ヒトラー!』と叫んで、日本人は笑顔でオット大使と共に叫んでました」
Oさん「ええ、そうですね。第二次世界大戦の時は軍事同盟を結びましたから、そういうことは日本で会ったでしょうね。ドイツでも日本人は歓迎されて特別扱いでしたから」
実は言うとOさんのドイツ語はハンブルク方言なので、僕のドイツ語力では返答をよく理解できなかったのだったけど、大体、そういうことを言っていたのだと思う。それで、娘であるIさんは母が僕のドイツ語を誤解しないように伝えていたが、Rさんはニコニコ微笑んで僕とOさんの会話を聞いていた。

ちょっと危ないかもしれないこういう話もした。
僕「ナチスドイツでは、ヒトラーが政権を取った翌年に『長いナイフの夜』があって、突撃隊と反ヒトラー派と思われた人たちが殺されました。突撃隊長のレーム、国防軍の将軍だったシュライヒャー、シュトラッサーなどが殺されました。でも、日本も全く同じだったんですよ。ドイツと同じように1929年の世界恐慌以後、不況に苦しんでいた日本では当時、『なぜ、日本にはヒトラーのような強い指導者が出ないのだ?』という不満があり、軍の将校たちと右翼団体はクーデターを起こすことでナチスドイツのような強い国家を作ろうとしたのです。それで、1936年の2月末にクーデターが起こって、米英びいきで軍縮を進めていた首相と大臣を殺したんです。日本とドイツは世界恐慌の後は全く同じ歴史を歩みましたね」
Oさん「ええ、そうですよ。ドイツではヒトラー総統が政権を取ってからアウトバーンを作ったり、フォルクスヴァーゲン社を作って国民が車を所有できるようになったり、経済回復をしていいこともありましたからね。恐らく、日本ではそういうヒトラー総統とナチス党のやり方を、手本にしようという人とかいたのでしょうね」
さっきも書いたようにOさんが言ったことはハンブルク方言だからよくわからなかったが、だいたいこういうことを言ったのだと思う。重要なのは当時のドイツと日本について、体験者であるOさんが語ってくれたことである。

それでちょっと余談なのだが、H家の主人、奥さん、奥さんの母のOさんはヒトラーのことを[Fuehrer](ヒューラー)「総統」と呼んでいた。息子のJは僕と同じように「ヒトラー」と呼んでいたが、僕が「ヒトラー」と呼んでいると注意された。主人は「別にネオナチではないんだが、既に50歳を越えてる我々の世代では『ヒューラー』と呼ぶ人が多いんだ。『ヒトラー』と呼ぶのはちょっと違和感がある」と言っていた。左翼は「ドイツは日本よりもよく反省をしている」などと言うけど、ドイツのこういう事実は実際に現地でドイツ人と話をしないとわからない。

 

奥さんのお母さんは僕のことを、「とても素晴らしい若者だ」と言ってくれた。


奥さんのIさんの母のOさんは、僕が語学学校に行っている間に昼間に帰ってしまったので、最後の別れの挨拶は出来なかったが、僕が語学学校から帰ってくるとIさんは、
「母は昼間にハンブルクへと帰りましたが、あなたのことを[Sehr Netter Junge](とても素晴らしい若者)と言ってました。第二次世界大戦後に生まれたのによく第二次世界大戦のことを知っていて、素晴らしい若者だと言ってました」
とほほ笑んで僕に伝えた。
「それは、決して皮肉とかではないですよね?」
「いいえ、母の本心です。皮肉のわけはないですよ」
このOさんの僕の感想を聞いて、本当に嬉しかった。また、ドイツ人の年輩の方々と第ニ次世界大戦の話を、元同盟国だった日本人がするのは決して失礼ではないことが、確信に変わった。

ナチスドイツを非難するような話は、ドイツ人の家庭ではするべきではない。特に保守的なドイツ人の家庭では、「ドイツと日本は同盟していたのに、ドイツを非難するのか?」と言われて怒られる危険性がある。


それでも、最後に付け加えると、かつて同盟国だったドイツ人と第二次世界大戦の話をする場合、よく馬鹿なネトウヨが主張しているような、「ドイツはヨーロッパの支配とユダヤ人絶滅のために戦ったけど、日本は有色人種解放、アジア解放のために戦った。それは、日本が第二次世界大戦に参戦した時の『宣戦布告』を読めば明らかである」などという、大日本帝国を持ち上げてナチスドイツを落とすようなことは、口が裂けても言ってはならないのである。基本的にドイツ人と第二次世界大戦以来の同じ歴史を話す時は、「日本とドイツは第二次世界大戦以後は同じ歴史を歩んできた。日本とドイツは過去についてよく学び戦争犯罪の謝罪もしていて、豊かで平和な国になっている。でも、戦勝国のアメリカ、ロシア、中国などは戦勝国ということで調子に乗って、第二次世界大戦後も世界各地で戦争をして失敗ばかりしていて、それについて謝罪も反省もしていない。それだけではなくて核兵器まで持っていて、地球を破壊しようとしている。日本とドイツは今では世界で一番平和な国になった」
というようなスタンスで話さないといけない。日本だけを持ち上げるということは、絶対に言ってはいけないのである。

 

写真上はホームステイのイメージの写真。僕もH家の結婚して家を出て行った長女が使用していた部屋に泊まったが、もっと大きな部屋で日本のサイズでいうと10畳くらいはあった。そして、こんな狭い2段ベッドではなくて広くて大きなベッドで寝ることが出来た。写真下はファイヒンゲン・アン・デア・エンツの駅。ドイツの高速列車のICE(日本でいうと新幹線)が止まるようになったので、新しい駅舎が建てられたという。

 

 

最後に、僕のブログを訪れてくれてありがとうございます。この記事のようなドイツ人家庭にホームステイして滞在した時の体験談以外にも、ドイツで10試合ほどブンデスリーガの試合を観戦していて、ドイツサッカーが好きな方に対して色々と興味深いブログ記事を書いているので、できれば他の記事も読んでみてください。コメントを書いてもらうと嬉しいです。ドイツ語の勉強の方法、ナチスドイツ軍に関する記事も書いてますし、これからもそういう記事を書いていきます。

 

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